循環器障害のないがん治療薬の開発は可能か? 循環器障害のないがん治療薬の開発は可能か?

がんの薬物療法に循環器障害はつきもの、まずはがん治療を優先し、その後で循環器障害に対処する――現在でもがん診療の現場ではこうした傾向が一般的だ。順天堂大学臨床薬理学教授で循環器専門医の佐瀬洋氏も「腫瘍循環器学が、がん治療薬の副作用をハンティングする学問領域になるべきではない。腫瘍循環器の目的は循環器に現れる有害事象を予防、あるいは軽減することによってがん治療を完遂することにある」と強調する。つまり腫瘍循環器学の登場は、がん診療における循環器診療のあり方を問いかける契機になったといえる。

そもそも循環器の機能を障害しないがん治療薬が開発できれば、そのような心配は不要であるはずだが、それは現時点では両立しがたい目標といえる。腫瘍循環器学に詳しい大阪国際がんセンター成人病ドック科の向井幹夫主任部長は「実際に多くのがん患者の治療をしなければならず、循環器障害のないがん治療薬を開発することは現実的な選択といえない。まずがん細胞にきちんと攻撃できる薬剤を開発し、そこで生じる副作用をがんの専門医と循環器の専門医、さらにメディカルスタッフが連携して対処することを目指すべき」と語る。

薬剤の処方方針には影響を与えつつある

がん薬物の開発において、iPS細胞から誘導した心筋細胞に投与し、異常を起こさない化合物を優先的に選択する試みも始まっているが、そうした試みは一部の先進的な製薬会社に限られる。「循環器障害のないがん治療薬を目指す」創薬はまだ保守本流とは言い難いが、処方において循環器障害などを考慮する必要性は広く認識され始めている。

例えば、2023年3月に日本腫瘍循環器学会と日本臨床腫瘍学会が共同で刊行した「Onco-cardiologyガイドライン」(南江堂)には、Future Research Question(FRQ)のなかに「心機能低下のある多発性骨髄腫患者にはカルフィルゾミブよりもボルテゾミブ、イキサゾミブ投与は推奨されるか?」が採用されている。多発性骨髄腫の治療薬であるカルフィルゾミブではほかの2剤に比較して2倍程度の心血管関連有害事象の報告がある。ガイドラインではこのFRQに対して「前向き観察研究やリアルワールドデータなどを用いた後方視的研などによる有効性・安全性に関する解析・研究が望まれる」と結論を先送りしている。

ガイドラインが下した結論は問いかけに回答するために必要な臨床上のエビデンスが不足している現状を反映したものだ。したがって、いますぐ処方に影響を与えるとはいえない。しかし今後、心血管関連有害事象に関する知見が集積し、医師らの関心の高まりによって、さらに同剤の心血管障害の予防や発症後の有効な介入方法が考案されなければ、薬剤選択に大きな影響を与える可能性がある。

循環器診療はband-aid practiceでよいか

循環器障害を顧みることなくがんの薬物療法を進めることは現時点で不可能であるが、その方向に向けて研究を進めることの重要性を主張する専門家も存在する。2023年3月に福岡で開催された第87回日本循環器学会学術集会では、米国MD Anderson Cancer Center(テキサス州)循環器科の阿部純一教授が講演している。阿部教授は「循環器医師ががん治療医からのコンサルトに応じるだけならば、循環器医学はband-aid practice(対処療法)にとどまることになり、腫瘍循環器における循環器の役割はサイエンスにほど遠い存在になる」と訴えた。

がんの薬物療法の分野では新薬が相次ぎ登場し、使用から一定期間の後に発生するような循環器障害の発生を見極めにくくなると阿部教授は指摘した。その結果、「従来のように使用経験の蓄積を待って臨床に反映する方法論が通用しなくなっている」と危機感を表明した。

腫瘍循環器学がband-aid practiceからサイエンスへ昇華するために、阿部教授は「薬剤を使用する前から循環器障害の発生を予見し、そのメカニズムを解明する必要がある。そのためにはヒトの障害を再現する実験動物の構築やバイオマーカーの探索が重要になる」と語った。

腫瘍循環器障害に対する医師や研究者の関心は高くなっている。現在のところ、その対策は軽症のうちに障害の発生を把握し、休薬や減薬に限られているといってもよい。今後は、ハイリスク薬やローリスク薬に分類、さらに使用できる患者の見極め、そのためのゲノムやエクソソームを含めたバイオマーカーの検索が重要なものになりそうだ。